自分の人生の傍観者になるな。
人生は自分で決められる。なりたいものになれる。
だから、勝ち取りに行け。
日本で2021年8月13日に公開された『フリー・ガイ』から得られた人生の教訓が、これです。
この記事では、映画を鑑賞して感じた疑問を考察したいと思います。
あらすじ
ルール無用のオンライン参加型アクション・ゲームのモブ(背景)キャラとして、平凡で退屈な毎日を繰り返すガイ。ある日、彼は新しい自分に生まれ変わるため、ありえないほど“いい人”すぎるヒーローとして、プログラムや設定を完全に無視して自分勝手に立ち上がる。ゲーム史上最大の危機が待ち受ける中、はたしてガイに世界は救えるのか…!?
20th century studios
スタッフ&キャスト
監督 ショーン・レヴィ
20th century studios
脚本 マット・リーバーマン, ザック・ペン
原案 マット・リーバーマン
製作 ライアン・レイノルズ, ショーン・レヴィ, サラ・シェクター, グレッグ・バーランティ, アダム・コルブレナー
製作総指揮 メアリー・マクラグレン, ジョシュ・マクラグレン, ジョージ・デューイ, ダン・レヴィン, マイケル・ライリー・マクグラス
ライアン・レイノルズ (ガイ)
20th century studios
ジョディ・カマー (ミリー/モロトフ・ガール)
リル・レル・ハウリー (バディ)
ジョー・キーリー (キーズ)
ウトカルシュ・アンブドゥカル (マウサー)
タイカ・ワイティティ (アントワン)
【考察①】金魚は何を指すのか?
ガイには可愛がっているペットがいる。金魚だ。毎朝、金魚に挨拶するほどガイは溺愛している。
この金魚は何を表しているのでしょうか?
金魚は小さな金魚鉢に入れられている。少し右に動くとすぐそこには壁があり、少し左に動くとすぐ壁にぶつかる。
生きる場所を制限され、生かされている。
金魚は海では生きられない。ガイは映画の後半で金魚の水槽は大きくしても、放流はしていない。
これはガイの生活にも共通する。
ゲームの世界に生きるガイは、隠しステージにたどり着けてもリアルの世界では生きられない。
これは私たちにも共通するのかもしれない。
金魚鉢の金魚
↑を育てている、ゲームの世界に生きるガイ
↑をモブキャラとして見ている、映画でリアルの世界に生きるたち(キーズやミリー)
↑をさらにそれを映画鑑賞している、私たち
↑さらにそれを見ている〇〇?
このように入れ子構造になっている。
私たちは、与えられた地球という「箱庭」からは出られないのかもしれない。
もちろん、地球脱出計画が進み、他の惑星への移動が自由になれば、「箱庭」から出る日が来るかもしれない。でも、その未来はまだ誰にも分からない。
映画で登場する「金魚鉢と金魚」は、「地球と人類」に置き換えられるかもしれない。
あなたは箱庭の中で生きていると聞いて、どう思いますか?
ガイの親友、バディの言ったセリフが頭によぎる。
「それがどうした?」
「自分がリアルじゃなかろうが、困っている親友を助けようとしてる、今のこの瞬間はリアル」
少し前に『The Power of Now』を読んだ私にとって、この考えはすっと腑に落ちる。
【今しか存在しない。それ以外はすべてフェイクなのである。】
読んだことのない人は、ぜひ読んでみてください。オススメです。
【考察②】海の向こうにあるものとは?名作との共通点
どんなゲームでもいいです。
生まれてから現時点までで、やったことのあるゲームを思い浮かべてみてください。
どんなゲームにも海が出てくるはずです。
海はどんな使われ方をしていますか?
これ以上先には進めないことを示す「壁の役割」としてゲームに出てきませんか?
少なくとも『フリー・ガイ』に登場するゲーム「フリー・シティ」では、海はステージの端を表しています。
プレイヤーは基本的にこれ以上先に進めません。
この映画『フリー・ガイ』と共通点の多い『トゥルーマン・ショー』でも、海は大きな役割を果たしています。
(もし鑑賞したことのない方は、ぜひ観てみてください。個人的に死ぬまでに観てもらいたい1本です。)
『トゥルーマン・ショー』のネタバレは避けますが、ジム・キャリー演じるトゥルーマンは、子どもの頃のトラウマで、海に恐怖心を抱いています。
私たちが暮らす日本列島も海に囲まれているので、「これ以上先に進めない」という感覚はどの国の人よりも身近なのではないかと思います。
海外旅行や留学が割と容易にできるようになった現代では、海=壁の意識は薄れているかもしれません。
それでも、海を超えるという行為は、1つのコントロールされた箱庭を出る感覚に近いと思います。
これより先は進めないという固定観念を壊し、別の世界へ歩を進めるのは、これ以上ないほどの経験値を与えてくれるはずです。
【考察③】なぜガイはデュードにサングラスをかけたのか?
映画の終盤で、ガイを殺そうとする筋肉隆々のキャラクター、デュードが登場します。
馬乗りになっているデュードに対して、ガイは自分のサングラスを外し、デュードにかけてあげます。
ガイはなぜ、サングラスをかけてあげたのでしょうか?
サングラスをかけたガイは、いとも簡単にデュードを殺すことができたはずです。
映画の武器(ライトセーバーなど)やマーベルの武器(キャプテン・アメリカの盾)、ゲームの武器(ロックマンのロックバスター)を巧みに操れるほど、レベルが上がっていたからです。
実際、デュードにみぞおち辺りを攻撃されているとき、ガイはアイテム選びに迷っていました。
どの武器でもデュードを殺すことができました。
しかし、ガイは最後までガイであることを貫きました。
ガイは、ゲームのキャラを簡単に殺すようなプレイヤーとは違うのです。
そして、このガイの行為は波及して、デュードはある機会を与えられます。
それは、殺人鬼というプログラムされ与えられた仕事ではなく、なりたい自分になれるという機会。
私たちは、親の洗脳や、教育の洗脳、政府の洗脳、など、生まれ育った環境によって価値観や思想などの影響は多少なりとも受けますが、個人の意思で自由に生きることができます。
あなたの行動はプログラムされていません。
忘れがちですが、自分の人生は自分で切り開くことができます。
逆を言えば、自分でしか切り開くことができません。
ガイのようなお助けキャラはあなたの人生に登場しないかもませんが、あなたがガイになることはできます。
さいごに
映画『フリー・ガイ』には、まだまだ深堀りしたいことがたくさんあります。
小ネタや字幕やセリフなどは別の記事で取り上げたいと思います。
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